吉永小百合さん

吉田正音楽記念館

イベント・お知らせ


令和3年1月20日は、作曲家吉田正の生誕100周年のお誕生日です。

 誕生日を記念いたしまして、日立市吉田正音楽記念館へ、吉田門下生より、心温まるメッセージが寄せられましたので、ご紹介いたします。


橋 幸夫さん
 吉田正先生・生誕100
年によせて

1921年に吉田先生がこの世に誕生され、本年2021年で丁度100年となり、本年は吉田正生誕100年と言う記念すべき年になりました。僭越ながら我が恩師の生誕百年を心よりお祝い申し上げます。
 先生との思い出を話せば切りが無い程の思い出が浮んで来ますが、先ずは出会いから、書かせて頂きましょうか。
 私が
16歳高校1年生の最後の年明け、1月後半に初めて先生のご自宅にそれまで歌の基礎を教えて下さった、もう一人の恩師遠藤実先生とご一緒にお伺いし、お目に掛かったのが最初の出会いとなり、その後吉田学校の門下生となり、先生には数えきれない教えを頂き、人間としても貴重な体験をさせて頂きました。
 その教えの中で最も感じた一つを思い出しますと「人間生きる事が大事」、この言葉をレッスン後のひと時や、先輩方と一緒にお正月等にご自宅に伺った時などに、時々話して下さいました。「人の命の大切さ、生きてこその人生」という言葉が今でも心に深く残っております。

 私はまだ若かったので、命とか人生などの話を何故先生はよくされるのかなー?と思っていたのですが、先のあの戦争で陸軍の兵隊として戦い、終戦後直ぐ、旧ソ連軍に長い間、捕虜として抑留されたシベリア生活が生涯忘れる事の出来ない最大の苦難な生活体験としてあるので、時ある毎に若い私達に「人生は一度しかないんだぞ、しっかり大切に生きなきゃな」と言う言葉になるのです。それは我々には想像もつかない過酷な捕虜生活の体験が先生の人生の大きな人生体験として忘れる事の出来ない出来事だったのだと思います。

 長い間のソ連(ロシア)との戦争体験の中でも最大の苦難の時期、それは終戦が決まって各国の日本軍はそれぞれ帰国が許されているのに、ソ連は敗戦した日本兵を長い間日本に帰さず、それも長い間、自由もなく食事も乏しく、まるで地獄のような過酷な労働の毎日の中で、何としても生きて帰れる日まで頑張るのだ、それには皆で一緒に歌える歌を作り、日本兵達を勇気付ける為にそれを皆で歌いながら頑張って、いつか必ず生きて日本へ帰ろうと、互いを励ます為の歌作りだったのです。それが後に、先に帰還出来た仲間が書き取った一枚の詞、曲「昨日も今日も」であり、生きる為の応援歌が後にタイトルが「異国の丘」となり歌い継がれて行ったのです。  そして後々皆様も知る事になったと思いますが、私も先生のその戦時中の捕虜生活、そして戦争の惨さ、悲惨さの体験から生まれた、「死ぬなよ!!の叫び声」だったのだと聞きました。そして長い長い地獄の中で次々に捕虜仲間が飢えと寒さで死んでいく、その戦友達への「励ましと、生きる為の、曲を書いて行こう」と決心し、日本へ帰国後、作曲家吉田正が誕生したのだと知り、先生の人生体験からの曲作りの凄さを改めて感じる事が度々ありました。

 さてそんな作曲家吉田正としての偉業は皆様もよくご存じと思いますが、私は歌の道に歌手としてデビューしてからこの偉大なる恩師の元、只々歌える事の喜びと有難さに浸りながらなんと昨年で
60年もの永きに渡り歌い続ける事が出来ました。これもこの素晴らしい恩師のお力、と多くの応援して下さる全国のファンの皆様のお蔭です。本当に有難き歌手生活を過ごさせて頂いて来ましたが、そこには多くの吉田メロディーを愛し、応援して下さる全国の吉田メロディーファンの皆様があっての事だと言う事も決して忘れる事なく、何時までも恩師の面影を力に、今後も吉田門下の一人として頑張って参ります。天界に先に行かれたフランク永井先輩、松尾和子先輩や鶴田浩二先輩、その中には大先輩で大作詞家、佐伯孝夫先生も、そして先生のお隣には最後までお傍で尽くされた奥様、喜代子夫人の楽しそうに微笑まれたお姿、そのお隣の先生の満足そうな笑顔も久しぶりに拝見出来ました。全てが見える天界からそちらにいらっしゃる皆様と共に永遠の命を永らえて下さいませ。先生100歳万歳!!

 最後に喜代子夫人が先生の栄誉と功績を永く後の世の皆様にお伝えしたいと作られました「吉田正音楽記念館」は初代館長の吉田喜代子夫人の深い愛の結晶であり、建立以来日立市長を始め多くの市のスタッフの皆様によって威風堂々と今も尚、輝き続けております。加えて全国でも稀に見る、市直営のこの記念館は先年、天界へ行かれました初代記念館館長吉田喜代子夫人の後継として非力若輩ではありますが、私橋幸夫が二代目名誉館長を務めさせて頂いております。皆様、本日は吉田正生誕100年の記念に、ようこそご来館頂き、先生も全てが見える天界から「ありがとう」とほほ笑んでいらっしゃる事と思います。
 本日はコロナ禍の中、ようこそお越し頂きました。皆様もどうぞお体ご自愛頂き、楽しい人生を吉田メロディーと共にお過ごし下さいませ。 誠にありがとうございました。


吉永小百合さん

 吉田正先生へ

 
 ご生誕
100年を心からお祝い申し上げます。と言っても、先生はもう私達と同じ場所にはいらっしゃらない、寂しいことです。でも、いつも天空から「小百合ちゃん、生きるということは、大変なことなんだよ」と語り掛けて下さいます。私は先生の言葉をしっかりと噛みしめて、これからも歩いて行かなければと思っています。
 先生と初めてお逢いしたのは
1961年でした。当時、映画俳優はスクリーンの中で主題歌を歌っていました。日活では裕次郎さん、小林旭さん達です。そんな中で青春映画に出る様になった私も歌うことになり、吉田先生のお宅にテスト生の様に伺ったのです。当時流行っていた「北上夜曲」を歌いました。なんとか合格して、映画の撮影を終えた夜に時折先生のレッスンを受けることが出来ました。先生は“言葉を大切に”といつもおっしゃっていました。“言っているいる”だよ、“言いっているいる”ではない。話す言葉と同じように歌うのです。「寒い朝」も「いつでも夢を」も、言葉をしっかりと聴き手に伝えること、また躍動感を大切にされていました。そして私の同世代の方達が愛唱して下さったのです。 
 先生はお亡くなりになる少し前に私を食事に連れて行って下さいました。静かに、少しずつ御自分の思いをお話になり、私は先生の足跡を受け止めました。
あれから20年以上の歳月が流れましたが、先生が創って下さった歌はいつまでも私の心の中にあります。吉田先生、どうぞこれからも私達を見守ってください。

                                       

三浦洸一さん

 生誕100年に向けて

 今年の1月で吉田先生生誕
100年になるとお聞きして、現実として先生とお別れしてから20年以上になると思うと、時の流れの早さをしみじみ感じております。私がビクターの専属が決まりましてからデビューまでの間、吉田先生のご自宅へレッスンの為に毎日通っていた頃を今でもはっきりと思い出します。声楽を習ってきた私に、流行歌の唄い方を教えて頂き、何度もダメ出しをされて、さぞ大変だったでしょう。でも、そのお蔭でデビューして遠くないうちにヒット曲に恵まれ、どちらかと言えば順調な歌手のスタートになったと思います。私の歌の歴史を見ても、ヒット曲のほとんどが吉田先生の作品でございます。先生とはそれだけ運命的なものを感じております。私は93歳になりましたが、できるものなら100歳の先生にお会いしたいと願っても、これは無理な事ですね…。吉田先生の曲で始まり、吉田先生の曲で私の歌手人生の区切りをさせて頂いた事、生涯の宝物、わが人生に悔いなし…でございます。生誕100年をお迎えした現在でも、吉田先生の作品が世間のどこかで唄われている事に感動と感謝の気持でいっぱいでございます。



三田 明さん

 師を偲び師を思う 


 1963年(昭和38年)、恩師吉田正先生に師事させて頂き、今年、歌手生活57年目を迎えることが出来ました。時節(とき)が早く感じる今日この頃、気が付けばなんと僕も73歳に。先生がご存命ならば今年2021年(令和3年)1月20日に100歳の誕生日を迎えられたのですね。
 僕の心の中にはまだ少し、先生は亡くなっていないと云う思いがあるみたいです。正月を迎える除夜の鐘が鳴り始めるとたまに、電話の受話器
(今なら携帯)に手がいってしまいそうになるんです。実は、毎年元旦の午前零時に当時、恩師吉田正先生のお宅にお電話で新年のご挨拶をさせて戴く。これが僕の「1年の計」でした。年の初めに先生のお声を聞かせて頂くだけで、「今年も元気で頑張るぞ~」って気持ちになれたんです。除夜の鐘が鳴ると同時に電話する人はここだけの話、大先輩の三浦洸一さんと僕だったみたいで
したよ。終いにはどちらが早いか毎年競争になってまして()
  デビュー当時、仕事がない時には殆ど先生のお宅に伺って居りました。たまに先生が大切なお話をして下さるので、僕には大切な時間と空間でした。例えば「プロの歌手とは…」とか、「人生はマラソンだよ…」とか、子供の僕には分からない芸能界の中で迷わないようにと師として、時には親父のように諭して下さいました。

 ただ、正直言って当時の僕には今思うと、あまり理解出来て無いことの方
が多かったように思えます。何故なら、1年、2年と経つごとに「アッ!そうか!そう言えばあの時、先生が仰っていたことは…」って、一つひとつ、ズシッと胸に刺さることばかりでしたから。先生がもう少し長くお元気で居て下さったらな。もう少し教えを、お話を聞かせて頂けたらなと、今も心から思って止まない気持ちです。


古都清乃さん

 吉田正先生の思い出

 
吉田正先生の、私が一番印象に残っているお姿は、先生がご自宅で大島の着物を着て、腰には絞りの帯を粋に締めて、くつろいでいらしたお姿が一番好きでした。
 たばこはいつも指の先にあって、ゆっくりとけむりが先生のお顔を横切っては消えてゆく。何か作曲のことをお考えになっていたのでしょうか。鼻唄を唄っていらして、それを書き留めるでもなく、次から次へと口からメロディーが流れて来るのです。そしてそばには必ず愛犬の花子ちゃんがいて、先生のご機嫌を伺いながらそわそわしているのです。
 そんな時は先生も一番ゆったりとした気分に浸っていたのでしょうか。そのような時の先生からは、どこからともなく優しさが溢れていて、いつもの厳しい先生とはまるで違っていました。

 先生の「生誕
100年」の記念の日に、私の新曲「笑顔の花」「あした」を発売して頂けますことを、心から嬉しく感謝致しております。

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